シャルトルの、とてもとても貧しい家に1900年に生まれたレイモン・イジドールは、カントニエ(道路の整備や掃除草刈係)、墓守、粗大ゴミ捨て場の管理人などを務めながら、自分で作った粗末な家を、拾い集めた陶器やガラスの破片を使って、生涯をかけてモザイクで埋め尽くしました。それがピッカシエットの家と呼ばれ、ゴシック建築最高の美しい大聖堂と並んで、今ではシャルトルの町の観光名所になっています。
ピッカシエットはピック(拾う)とアシエット(お皿)を繋げた言葉で、イジドール氏の場合は、文字通りお皿を拾う変人と思われていたからで、一般的には俗語で、人の家でうまくご馳走になってばかりいる人の事。ピカソとアシエットを繋げたという説もあります。
1929-30年に自分で建てた家は、はじめは水も電気も無かったのだそうです。人と折り合えない性格で、色々な職を転々としたり失業したりを繰り返し、1935年くらいから、モザイクに没頭し始めます。畑を歩いていて、美しい色のキラリと光る陶器の破片を見つけて拾ったのが始まりだとか・・・
家の内部から始め、キッチン、居間、寝室は壁画とモザイクのミックス(写真ではわからないかもしれませんが、どれもほんとに小さな部屋)。よくバルセロナのガウディのグエル公園と一緒に紹介されますが、規模はずっと小さく、また芸術とは縁の全くない、一人の労働者のイマジネーションだけから生まれた事が驚異的です。
ピカシエットのモザイクは、素朴な、ある意味では幼稚なナイーブ・アートと評されています。でもこの礼拝堂(上と下2つの写真参照)など、ナイーブアートと簡単にかたずけられない美しさで、私はラヴェンナのビザンチンのモザイクを思い出しました。この素晴らしい色あいは、大聖堂のバラ窓のシャルトル・ブルーをイメージした色使いかしら? 信心深い彼が、礼拝堂だから特別丁寧にデザインしたのか、それとも彼のクリエーションの絶頂期だったのかもしれません。
大きな人は頭がつかえそうな低い天井。
家の横を裏庭に抜ける小路も、美しいモザイクで一杯です。シャルトルの街並みや大聖堂が繰り返しでモチーフに使われます。フランスの外の聖堂も沢山登場、キッチンの壁にはモンサンミッシェルの壁画がありましたね。
繰り返し現れる女性のモチーフは、どうも奥さんのようです。男性は彼自身?
始めは1930年代ですから、お皿の模様も当時のデザイン。庭を進んで奧に行くほど、お皿の絵が現代的に。そしてイジドールさんも年を重ねてだんだんモザイクが荒くなってきます。元々精神的に不安定だったようで、晩年はモザイクのインスピレーションが湧かなくなり正気と狂気を繰り返し、ついには嵐の夜に外に出たまま、翌日遺体が発見されるという悲劇で亡くなってしまいます。
シャルトルと言ったら、やはり欠かせないのは大聖堂。東側のファサードは修理中で、同時に有名な正面ファサードでは、彫刻群の掃除中でした。塔の上から吊るしたロープでまるでサーカスのよう!! 有名な最後の審判の、全能のキリスト像に接近しようとしています・・・
赤いリュックは、このレンジャー部隊(?)の道具入れ。
La Maison Picassiette 22 Rue du Repos 28000 Chartres
シャルトルはパリのモンパルナス駅から約1時間。ピカシエットの家は旧市街の外で、聖堂から歩いて約30分。バスもありますが、私は聖堂裏のユール川に沿って歩いて行きました。