7/31/2015

ベルティヨン/ パリのバニラ・アイスクリーム


Berthillon/ Les meilleures glaces à la vanille de Paris

フィガロ紙の″パリのバニラアイスクリームトップテン″で一位のベルティヨンは、バニラに限らず全てのフレーバーでトップの、老舗アイスクリームメーカーです。
サンルイ島の古い庶民的なレストランを祖母から受け継いだレイモン・ベルティヨンが、1954年に創立しました。毎朝、当時はレ・アールにあった大食料市場で仕入れた新鮮な卵、クリーム、ミルクを使い、本物バニラを香料としたアイスクリームを作ったそうで、彼は後にアイスクリームのボール・ボキューズと言われたくらいです。

(Figaro紙)

レイモン氏は皆に惜しまれながら去年90才で亡くなり(内60年をアイスクリーム一筋)、今はお孫さんを中心に、家族で仲良く運営しているようです。お店は頑固に昔のまま、サンルイ島通り31番地1軒だけで広げず、あとは沢山のカフェやレストランがお得意様。アイスクリームはフランスでは一年中人気のある、メニューに欠かせないデザートですからね。
毎日220リットル作り全部売り切るという、とても堅実な経営方針。一番売れる3つのフレーバーの売上比は、チョコレートとフランボワーズが各2箱ずつと仮定すると、バニラは8箱とすごい人気。私もここのアイスクリームは、必ずバニラと決めています。かなり甘いけれど、ストレートな甘さで嫌味がなく、とても美味。
今では観光客で一杯になってしまったサンルイ島には、ベルティヨンを食べられるカフェが何軒かありますが、元祖のお店は31番地だけ。いつでも長い行列です。

ところでベルティヨンは、昔からの慣例に従って、今年もまた7月末から9月1日までバカンスで閉店です。世界中探しても、真夏に1か月もクローズしてしまうアイスクリーム屋さんはここだけでしょうね!バカンスを楽しむ為に生きているようなフランス人達も、これにはさすがびっくりを通り越して脱帽です。働くときは働き、休む時は休む・・・これも堅実な経営の一貫なのでしょう。

因みにフィガロのバニラアイスクリームトップテンは、一位Berthillon、2位Pedone、3位2社Brom、Martine Lambert、 5位Raimo、 6位2社Le Bac à Glaces、 Dalloyou、8位 Gerati D'Alberto 、9位Amorino、10位 Hugo&Victor

Berthillon     31 Rue Saint-Louis-en-l'Ile  4e  水~日曜日 10-20時

7/25/2015

カフェの椅子/ ドラッカーとガッティ


Les chaises de café/ Maison Drucker et Maison J.Gatti

下の写真を見てください。一目でパリのカフェと思いませんか?

その通り、これはサンジェルマンデプレのドゥマーゴのテラス。ヴァカンスが始まったのでパリジャンは少なく、お客様は多分殆どが外国人だし、テラスの枠だけではどこの町のカフェかわかりにくい。では何が決定的かというと、それは椅子!パリのカフェと切り離しては考えられないのが、この籐椅子ではないかしら?


一番高級なのは、籐椅子のロールスロイスと言われる1885年創立のメゾン・ドラッカー。ドゥマーゴ、カフェドフロール、クローズデリードリラ、ロワイヤル・モンソーなど、伝統があったり超一流のカフェご用達のブランド。特注、オリジナルデザインなどの注文が可能で、戸外で10何年だったか(忘れました)長持ちし、古くなっても色の塗り替え等のアフターケアもあり。1つ600€くらいするらしい・・

もう一つ有名なのはメゾン・ガッティで、創立は1920年。ドラッカーほどに超高級ではなくでも、数えきれないほど沢山のカフェで使われ、みなに親しまれているパリの顔。それでもこのガッティの椅子のあるカフェは、中‐上級。籐がアジアから輸入されるので、アジア生産に流れそうなのに、ドラッカーと共に殆どをフランス生産で頑張り、フランスの国宝企業のタイトルを持っています。どちらも椅子の背に、金属のブランド名付き。


そして最後は、ブランドの無い普通の籐椅子達。庶民的で気取らない街角や田舎のカフェにあり、エレガントでもシックでもないちょっぴり古臭い、でも本当は一番オーセンティックでパリらしい椅子です。多分アジア生産が多いのでしょうね。最近は悲しいことに、籐の部分がプラスティック製、などどいう可愛そうな椅子も見ますが、そんな醜い椅子が増えないといいのに!
 ファッショナブルなモノクロームのモダンなデザインと、珍しいカラフルな編み込みの凝ったものが最近は人気。
 
Maison Drucker   http://www.drucker.fr/?lang=en

7/22/2015

マタリ・クラッセ/ 子供の家、サンキャトル


La Maison des Petits à Centquatre/ Matali Crasset

ラ・メゾン・デ・プティは、サンキャトルの中に作られた、5歳までの幼児と付き添う大人たちの為の空間で、フランスのデザイナー、マタリ・クラッセがデザインしました。かくれんぼのできる遊び場、本を読んだり、絵をかいたり、工作したり、何でも揃っている楽しい場所です。大人たちも一緒に楽しみ、サンキャトルのアーティスト達が参加したイベントもあるので、出会いの場でもあります。午前中は予約制のグループのみ、午後は個人参加で、参加費、工作などの材料等全て無料。
カバーを掛けるとマッシュルームのようになる、不思議な″木″があちこちに立っていたり、安全を十分考えたエルゴノミックなスツールなど夢が一杯。Parcours Designパルクール・デザインの、デザインリサーチのルートにも組み込まれています。


マタリ・クラッセは赤、ブルー、黄色、グリーンなどの原色が大好きだそうで(いつもビビッドなカラーの洋服を着て、独特のおかっぱヘアーと共に、彼女のトレードマーク)。彼女の作品は、みなカラフルで楽しいデザイン。色使いや独特のフォルムのためか、子供関係のデザインが得意で、現在トレベダンというブルターニュの小さな町に、町と一体になった新しいタイプの学校をデザインし、9月にオープンの予定。


La Maison des Petits,  Centquatre, 5 rue Curial 19e

7/17/2015

あなたの愛は重すぎる!/ ラブ・ロック公害について


Our bridges can no longer withstand your gestures of love

このブログは私の好きなもの、ステキなものやデザインが優れているものをテーマにしているつもりですが、今回は例外的に、ステキでないもののお話です。
セーヌ河にかかる沢山の橋の中でも、歩行者専用で静か、歩く部分が木製で素朴でほっとする、私の大好きだった芸術橋ポン・デ・ザール。その橋の金網に、いつのころからか(2008年頃かららしい)錠前が付けられるようになりました。2人が離れないように、錠前でしっかり封じ込めた愛の証・・?このラブ・ロックはあっという間に増えて橋を埋め尽くし、その前で写真を撮る観光客が絶えません。増えに増え続け何トンにもなり・・・

とうとう金網が崩れ落ち・・
重さで橋が壊れる危険もあるので、最近金網ごと取り外し、錠前の付けられないガラスパネルに(写真The Guardian誌)
«あなたのラブは重すぎて、これ以上支えていられません»という、やんわりとラブ・ロック禁止を伝えるポスター。

念願叶ってパリに来たツーリストは、何か記念を残して帰りたくなるのでしょう。昔から人間のやりたがることはあまり変っていないようで、フランスには中世のツーリストである巡礼達の落書きがあちこちに残っていますが・・現代は人数が桁違いに多いから公害になってしまう。

さてラブロックを取り外した橋はどうなったかというと、ストリートアートのポップアップ・ギャラリーに変身しました。観光客を大事にしたいパリ市としては、ラブロックを取ってしまったので、若いツーリスト達を喜ばせようというつもりなのかも。でも、でも・・錠前の重みに喘ぐ芸術橋も、美しい眺めではなかったけれど、ポップアートの芸術橋は、醜悪、悪趣味。こんな橋にしてしまって良しとするなら、パリ市の美的感覚も地に落ちたもので、ラブロックよりこっちの方がもっと大問題です。錠前取り外し作業中の、一時的なものであることを祈るしかありません。

7/11/2015

ル・コルビュジエ展/ ポンピドーセンター


Le Corbusier/ Mesure de l'Homme, Le Centre Pompoidou

これだけ20~50年代のデザインや建築が話題になり、そろそろお出ましかな?と思っていたところ、やはり出ました。没後50年ということもあって、ル・コルビュジエ(LCB)は今年前半期のパリのスーパースター、中でも一番のイべントはポンピドーセンターの回顧展です。
あまり沢山の書きたい事があって整理ができないし、メディアや本がたくさん出ているので、説明はそちらに任せて、とりとめなく思ったこ事を徒然なるままに書くことにします。
建物の模型や設計図に劣らない沢山の、彼の油絵やデッサンがありました。画家として成功し、友人の画家のアメデ・オーザンファンと、ポスト・キュービズムの、ビューリズム(純粋主義)を提唱し、《キュービズム以後》という本を協同で出したり、雑誌《レスプリ・ヌーボー》を発刊し、芸術一般について彼らのセオリーを発表したり。マルチアーティストだったのです。
壁画など、注文を受けて描いた大作も
 
鉛筆のデッサン。上写真のテーブルやティーポットなど見ていると、イラストも上手そう。下はパリ郊外ポワシーにある有名なサヴォア邸(ヴィラ・サヴォア)のデッサン。
LCBとシャルロット・ペリアンのデザインした椅子




LCB、オーザンファンが1920~25年にかけて月刊で28号出版したエスプリ・ヌーボー。世界で初めての、現代の美学に関するインターナショナルな雑誌、と副題があります。
下はワイマールのバウハウスを支援する、エスプリ・ヌーボーのページ。チュリンゲン地方の政府が左派から右派に変わり、1925年4月1日をもって校長ワルター・グロピウス以下教師が解雇され、バウハウスが解散されたことに抗議し、バウハウスと校長ワルター・グルピウスの活動を称えたもの。この号をチュリンゲン政府に送っています。
沢山の建築関係やデザインの資料が展示されていますが、それらのパンフレット、本、雑誌のデザインやLCBの絵を使った表紙がとてもステキ。こういった本だけ集めた展覧会をしてほしいなあ・・・

ピューリズムから展開したLCBのセオリーは、簡単なベッドしかない質素な僧院の寝室や、客船のコンパクトなキャビンを理想としたアパートで、そのために人間の体を元に計算した新しいサイズ、モデュラーModulor(写真下)を考案しました。写真右上の巻尺は、彼の作ったモデュラーの巻尺。
 
その結果が、マルセーユのシテ・ラディユーズCité Radieuse。保育所、子供の遊び場、体育館、商店などが組み込まれた、全く新しい生活様式の提案、一種のユートピアです。けれど残念ながら、このユニテ・ダビタシオンは以後醜悪な郊外団地を生み出し、だからLCB批判も沢山。また一定に統一された郊外ベッドタウンのアパート群は、どちらかというと全体主義的な思想でもあります。機能的で安価な、近代的な衛生設備を備えた住宅という理想を追求していたら、個々の人間を1つの型に押し込んでしまうことに・・・

下は1952年から亡くなる1965年まで、気候のよい時に住んだ夏の家プチ・カバノンPetit Cabanon。カバノンとは小屋の事で、面積がたったの3.66x3.66m、高さ2.26m、文字通りの小屋。中は質素な夫婦の2つのベッドと計算された収納で、モデュラーのセオリーをそのまま応用したもの。著名な建築家の別荘となれば、特別に斬新だったり珍しいデザインのがよくありますが、この小屋は全くその逆。本当にシンプルなものを好んだLCBが、晩年に行き着いたミニマリズム! 海に面して、アイリーン・グレイとジャン・ヴァドヴィチの建てたヴィラE1027のすぐ後ろに建っています。賑やかに仲間が集まっていたようです。
下はル・コルビュジエ財団のサイトからの写真。下のカラフルなペイントの壁はクローゼットのドア。奥の丸いドットは洋服かけ。この洋服かけと四角いスツールは、今復刻版が販売されています。カッシーナのオライトのインスタレーション参照。
こうしてみると、ユニテ・ダビタシオンも、団地でなく単独、又は少数の集まりなら問題ない。特にこのカバノンは、独特の壁画や色使いで、家具が粗末なのに反してとびきり個性的です。シンプルライフを好む人には最高でしょう。近代的な衛生を重視したLCBにしては、機能的なトイレとシャワーが無いのが不可解。写真では家の左側に何かあるので、戸外に付いていたのかしら?(南仏の夏は外のシャワーでも快適、特に海で泳いだ後はとても便利)サイトには何も書いてありませんでした。
Le Centre Pompidou Le Corbusier, Mesure de l'Homme 8月3日まで

7/01/2015

装飾美術館のボタン展


Déboutonner la mode/ l’exposition des boutons au Musée des Arts Décoratifs

ほんの小さなボタンが、ファッションを作りだす・・・そんな重要な役割を果たしてきたボタンを集め、歴史的な流れを追った展覧会が装飾美術館で展示中です。ロイック・エリオという個人コレクショナーが集めた、世界で唯一の珍しいボタンのコレクション(3000個)に、装飾美術館所蔵のコスチュームを加えた展示で、小さいながらボタンが、ファッションはもとより、ヨーロッパの文化、歴史、芸術、工芸と深く関わりあっていたことがよくわかります。


入り口を入ってすぐに、ボタンの第1黄金期18世紀後半のボタン達が。ボタンの登場は遅く、14世頃までの服着脱は、毎朝晩縫い付けたりほどいたり!していたらしい。その後ルネッサンス期は紐で締めたり結んだり、そういえばルイ王朝以前は、ボタンらしき物は肖像画などで見た記憶がありません。ボタンが″発明″されるとすぐに、ファッションの花形となり、ボタンの方が服自体より高価、なんてこともしばしばあったそうです。上は当時の貴族男子のジャケット生地の、裁断前の写真。生地の余白には、身頃とアソートの精密な刺繍のくるみボタン用の部分があります。前身頃、カラー、袖口、ポケットに刺繍が施されてから布をカットしたのですね、カット失敗したら大変、裁断は勇気が要りそう。
              

刺繍のくるみボタンだけでなく、金、銀、宝石の細工、カメオ、風景や肖像を描いた陶器(一つ一つ違う手描き)など、華麗で繊細な、ビジュー・ボタンは圧巻。大きめのボタンが前身頃、袖口、後ろ身頃の腰のプリーツの部分、そして内側のチョッキにも小さいのが一列あるので、全部でいったい何個になるのか? でもチョッキのボタン以外は、純粋な装飾品ですね。王党派か革命派かがわかるデザイン、家族の肖像、神話を描いたボタン等々・・
不思議なことに、この時代の飾りボタンは男性用だけで、まだ女性のドレスに見られません。それが19世紀頃になると女性のドレスにもボタンが使われ、襟元からドレスの裾まで中央に一列に並んだり、袖口やウエストのアクセントに大き目の飾りボタンを付けたり・・ブロンテ姉妹風のドレスが何点か展示してありましたが、暗いので写真は断念。

 ポール・ポワレの夏のリネンのドレス1902年
 

じっくり見たら、丸一日かかりそうなコレクション、とても全部のスタイルを、このブログで説明できません。私は最初の王朝期のボタンでゆっくりしすぎて、後で時間が足りなくなってしまいました。現代になればなるほどデザインがシンプルになりますが、つまらないデザインになってくるかというと、とんでもない。30年代のエルザ・スキャパレリ、50年代はディオールやジバンシー、マドレーヌ・ヴィオネなどのクチュリエの台頭で、ボタンもブランドができ、組紐、藁やラフィア細工など、信じられないくらい多様なマチエールと工芸技術が使われ、陶芸家、彫刻家、画家などのオリジナルのボタンが作られました。芸術家の作品と、彼らのデザインしたボタンが一緒に展示され、ボタンは、さながら芸術品の様です。フランスが一番素晴らしいボタンを作っているそうで、展示品の90%がフランス製とのこと。 
展示は50年代まで、それ以後は大量生産の時代ですからね。それを見ただけでその人の地位が分かった程重要だったボタンも、それ以後は単なる衣服のパーツになってしまいました。

これはソニア・ドローネーがデザインしたボタン

ところで、私は王朝風のジャケットというと、どうしてもベアトリクス・ポターのピーターラビットのお話″グロースターの仕立て屋″を思い浮かべてしまいます。命を助けられたネズミ達が、病気の仕立て屋さんの代わりに、市長さんの結婚式用のジャケットを仕上げるお話です。以前原画をロンドンの美術館で見て、美しくかわいらしい水彩で忘れられません。

最後にサクランボ色の糸が足りなくなって、ネズミ達はボタンホールが1つだけ仕上げられませんでした。実はいじわるネコが隠していたのです。病気の治った仕立て屋さんは、ボタンホールを仕上げ、その見事な出来上がりで、以後注文が沢山来るようになりました・・・No more twist !″


Déboutonner la mode, Les Arts Décoratifs    107 rue de Rivoli, 1e   7月19日まで