9/29/2015

オシャレなデザインチョコレート


Le chocolat très design/ Le chocolat des Français

美術学校の同級生で大のチョコレート好きの2人が、チョコレート職人と出会って生まれたのが、このとってもオシャレなル・ショコラ・デ・フランセ。防腐剤などの薬品は一切使わず、厳選されたカカオバター100%で手作り。いくつもの賞を受け、味だけでなくポップなパッケージが人気です。パリではコレットやママシェルター、ボンマルシェのグルメ館、シャンゼリゼのドラッグストアー、ロンドンはハーベイニコルズやコンランショップなど、これまた特別オシャレなお店で販売中です。ネット販売もあり!
色々なイラストがあるけれど、私は上の写真のを選びました。


Le chocolat des Français 

9/24/2015

マルタ・パンとアンドレ・ヴォジャンスキーのアトリエハウス


Maison-atelier de Marta Pan et André Wogenscky

先週末の ″文化遺産の日″ に、パリ郊外40キロほどのサンレミ・レ・シュブルーズにある、彫刻家マルタ・パンと建築家アンドレ・ヴォジャンスキーのアトリエハウス(1952年)を見てきました。ヴォジャンスキーは1936-56年の20年間、ル・コルビュジエの主任建築家としてユニテ・ダビタシオン等の建設に従事した後独立した建築家で、日本にも彼の作品が幾つかあります。このアトリエハウスは仕事のスペースを最優先し、キッチンや寝室などの生活スペースはとてもコンパクトですが、隅々まで計算されて作られ、快適そうな造り。仕事上協力し合っていたこともあり、2人のコミュニケーションに細心の注意を払った構造になっています。
上の写真は、トップが前庭に面したリビング側、円柱のある方は玄関側。

円柱の下の部分に玄関があるのですが、ドアのすぐ横には、ガラス張りでわざと外から見えるようにしたボイラー室があります(上左)。水道管などのチューブをカラフルな色に塗り、まるで前衛的なオブジェのよう。上右は、最高に素敵なオレンジの木製の取っ手の付いた入り口のガラスドア(マルタ・パン作?)と、入ってすぐ正面の、こちらもカラフルな鉛管達。普通は隠したくなる美しくないものを、わざと目立たせてインテリアの一部にしてしまう・・・!

とても小さなキッチン(上右、かわいい!)と、キッチンとの仕切りになっている食器棚のこちら側に、シンプルなダイニングテーブル(上左)。市内の狭いアパートと違って、広い庭のあるこのサイズの家だったら、大きなダイニングキッチンか、1室独立したダイニングルームが必ずあるのが普通ですから、これは珍しい。案内してくださった方が、この家は人をディナーに招待するなどの社交的なスペースがありませんと言っていました。
上左は、リビングルームの大ガラス窓の中と外で、内側にも石、水、緑が配されているので、中と外に隔てがなく一体になっています。上右は、それを内側から見たところ。
家の中のソファーと、外の池の水連

上左はリビングの大ガラス窓から見える前庭の、マルタ・パンの作品。リビングルームのガラス越しに、メタルの円のこちらと向こうの緑が一体に溶けあって見えます。上右は、玄関の円柱の上に見える窓と煙突。この窓は鏡のようにグリーンを映して、とても美しい。
2階のヴォジャンスキーの仕事部屋。赤い書類ケースがとてもおしゃれです

彼の仕事部屋はわりと狭く、吹き抜けのリビングの天井の中央に取り付けたような造りです。下の写真はその仕事部屋の左右の吹き抜けの部分で、下右は階段から、下左は寝室の手すりから撮ったもの。階下のマルタ・パンのアトリエと、仕事を中断せずに相談したり意見を交換するなどコミュニケーションのために、壁は部屋を密閉せずに、手すりの高さまでしかありません。

ベッドに横になって読書できるように、クッションの上の赤い壁の部分は、開閉式で明かりが入るようになっています。
くくりつけの化粧台。左の赤い棚を押すと回転して窓が開き、下の階と話ができます。
オォ!と皆から歓声があがったスーパーデザインのバスルーム。黒いメタルの枠の中に、白いタイル張りで、メトロの駅をイメージ。というのも、ヴォジャンスキーはパリのRER線のオーベール駅を、白いタイルを使ってデザインしているのです!
階下のマルタの仕事部屋とリビングのスペース。天井にレールがあって、木材など汚れる素材を使う場合に、カーテンで仕切れるようになっています。

2階の外側のテラスの張り出しは、室内に直射日光が入って、仕事の邪魔にならないように配慮されています。驚くのは1階のリビングから外に出るドア。故意に普通の人が体を斜めにしないと通れない狭いもの。玄関にはカラフルであっても鉛管が並んでいて手狭、このリビングからのドアも狭く、これ以外に出入り口はありません。
またフランス人一般の憧れは、庭で太陽を浴びて、ゆっくり食事を楽しみくつろぐこと(だからみんなカフェのテラスで食事をしたがるのです)。そのため必ずあるはずの、テーブルの置ける庭のテラスがこの家にはありません。庭に出るドアは狭すぎて、食事のトレーを持って通り抜けられないし・・2人とも仕事人間だったのか、食事に淡泊だったのか・・多分その両方という感じがしました。
家の後方は丘を利用した起伏のある広い庭で、マルタの作品があちこちに展示されています。

Maison atelier de Marta Pan et André Wogenscky
82 Av. du Général-Leclerc, Saint-Rémy-lès-Chevreuse 78470
尚、このアトリエハウスはマルタ・パンとアンドレ・ヴォジンスキー財団が管理していますが、文化遺産の日など以外は、一般公開していません。

サン・レミ・レ・シュブルーズはRER線Bの終点で、駅を出るとすぐに牛のいる牧草地があり、小川の流れるのどかな町です。クーベルタン(あのオリンピックの!)のお城や、お隣のシュブルーズの町には中世の城跡もあり、ウイークエンドの散策にぴったりのハイキングコースがお勧め。

9/18/2015

ミシュランのトレードマーク、ビバンダム



Michelin-Man, Bibendum

先日サンルイ島近くを歩いていたら、自動車修理のガレージにタイヤ会社ミシュランの看板を見かけたので、今日はこのフランスを代表する”顔”の一つである、ミシュランマンについて書いてみようと思います。
調べたところ1898年頃に、積み重なったタイヤが、ビールのジョッキを掲げて乾杯している太鼓腹の男に似ていたことから、創立者のエデュアールとアンドレ・ミシュラン兄弟が考え出したそうです。宣伝用キャラクターとしては多分一番古く、世界中に今溢れているキャラクター達のご先祖様。又ミシュラン社とは切っても切り離せないトレードマークです。


このタイヤ男の名前はビバンダム。由来は一番初めのポスター(上)のキャッチフレーズ "Nunc est bibendum"から来ています。ラテン語で " さあ飲もう" といった意味で、ジョッキを掲げた太鼓腹の男ならぬタイヤ男が、ガラスの破片やクギの入ったグラスを飲もうとしています。 "あなたの健康を祝し、ミシュランのタイヤは障害物を飲みこんでしまうのだ! " 彼の両脇には、障害物を飲み込めなくてパンクした他社のタイヤ達が・・・
ラテン語をポスターに使うなんて、なんともアカデミックなようですが、当時フランスの教育の柱はラテン語フランス語数学で、そのためこれくらいの単純なラテン語なら、読める人が普通に沢山いたからのようです。それに端の方に、その意味は″乾杯″とも書いてありますし。
因みにこのラテン語、つい最近まで中学1、2年の必須科目だったのに、バカな社会党の文部大臣が、必須科目から削ってしまいました。沢山の識者達や心ある人々が、ラテン語はフランスのルーツで、これなくしてはフランスの文化は語れないと大反対したのに・・・・

                 

昔のビバンダムが、白い包帯を巻いたミイラのように見えるのは、その頃の車のタイヤが細かった事と、当時車の無い人々の重要な乗り物であった自転車のタイヤのため。最近の車のタイヤは太いので、ビバンダムもふっくらして、キャラクターらしく可愛くなってきました。ビバンダムの古いポスターやグッズは、熱心なコレクターがいます。
                     

ところで、1955年~2002年まで社長として、ミシュランを世界1のタイヤメーカーにまで発展させたフランソワ・ミシュランが、この春88歳で亡くなりました。社長(パトロン)と呼ばれることを嫌い、企業にはパトロンは1人だけ、それはお客様だ、というのが彼の口癖。銀行家やメディアが嫌いで、オフィスで過ごすより、工場で労働者達に混じって話し合うことを好み、工員の名前は全部覚えていたそうです。一級の事業家でありながらとても人間味のあった彼の葬儀は、2日に渡って町の人々や現在と過去の工員たちの弔問客が絶えなかったと新聞に出ていました。


                

9/11/2015

アレクサンダー・ジラード


Alexander Girard

アレクサンダー・ジラード(又はジラルド)は、ニューヨークで活躍したミッドセンチュリーを代表するアメリカの建築家、デザイナーで、レイ&チャールズ・イームズやジョージ・ネルソンに推薦され、1952年から73年まで、デザイン家具のハーマン・ミラー社のテキスタイル部ディレクターとして活躍しました。アカデミックで気取ったデザインとは正反対の、日常的でぬくもりを感じる彼のファブリックは、子供用のデザインのように遊び心が一杯で、ハッピーな気持ちになるプリント!



         
         
         
           
             (Photos by Girard Studio)
彼のデザインの販売権を持っているスイスのヴィトラ社から、現在スツール、テーブルなどの家具と、写真の木の人形たちの復刻版が販売されています。これらのウッド・ドールは、ユーモアがあって、サーカスや人形芝居、また東欧や中南米などの香りが混じりあっています。フォークアートが大好きだったとか・・父親がイタリアとフランスのハーフ、母親アメリカ人、フィレンツェで育ちローマやロンドンで勉強し、後アメリカにきたというマルチカルチャーの経歴のためかもしれませんが、夫人と一緒にコレクションした世界中の人形や手仕事等のフォークアートのオブジェが10万点以上。現在それらはサンタフェのフォークアート美術館に寄贈されているそうです。だから彼の人形たちも、国籍やカルチャーにとらわれない不思議なデザイン。自分のオフィスの飾り用に作ったそうですが、彼デザインのファブリックのインテリアにぴったりの人形たちです。

ところで、彼のデザイン生地の復刻版をヴィトラは出してくれないかしら? かわいいパターンが沢山あって、カーテン、クッション、それにエコバッグなど作ったりとあれもこれも欲しいのですが・・・といつも、昔のデザイナーの素敵なパターンの生地を見るたびに思います!

Girard Studio 

9/04/2015

ギイ・リブ/ 偽絵師の自画像


Autoportrait d'un faussaire/ Le vrai du faux

エクスプレス誌にとても面白いインタビューが出ていました。2005年に捕まるまで、30年以上の間巨匠の偽作を描き続けたギイ・リブ(GR)のインタビューで、彼の人生は小説そのもの。最近 ″偽絵師の自画像″ という本が出版され、アメリカでは映画も撮影中だそうです。あまりにも面白かったので、ここに要約を紹介します。
(by L'Express)
芸術とは縁のない環境で、どうして絵に興味を持ったのですか?(注: 彼は売春宿で生まれた)
GR  そうね、家はどっちかというと絵筆より拳銃って方だったからね。だけど6才のころからもう、絵を描いてたんだよ。お袋のキモノの柄を描いてみたくなったのかも、今でもその柄覚えているよ。それともアールデコの宿の雰囲気のせいかな。とにかくずっと絵を描きたかったんだ。早くに親父に追い出されたけど、それでもなんとか絵を描き続けていたんだ。

絵の素質があったのですね。ではテクニックはどうやって習ったのですか?
GR 15才の時に、リヨンのシルクのアトリエの見習いになって、そこでモチーフを描いたり色使いを覚えた。そのころ夜は居酒屋のベンチで寝ていたからね、よく給仕女の顔をクロッキーしたもんだ。ある日男たちがやってきて、写真の老女の肖像を描けという。それってコルシカのゴッドファーザーの母親だったんだ。それからは彼らのキャバレーの壁に飾りの絵を描いたりしたよ。

それから水彩を描いたのですね?
GR うん、生活のためにカンヌの港で、海の水彩を描いて売っていたんだ。そうしたら商人たちから組もうと言われて、彼らの為にブルターニュの海の絵を沢山描いた。彼らも大儲けしたけど、僕も儲かった。これはほんのお遊びだったけど、おかげて、この世界にコネができたわけ。

水彩画家から偽絵師にはどうして?
GR 80年代にアンリ・ギヤールと知り合った。頭がよくて、親が有名な美術の印刷工場を持っていてね、ダリのリトグラフィーの抜き取りをしていた。彼に励まされて、僕は面白がってシャガールの水彩のマネをしてみた。始めはマズかったけど終いにはいいのが出来上がった。1枚、2枚、彼はそれをアート・エディターのレオン・アミエルと組んで売リ始めたんだ。

コピーを描いたのですか?
GR いや、実在しない絵を描いたんだ。ピカソ、シャガール、マチス・・みな20,30,50枚の、似たような絵を描いていたから、そこに1枚加えるのさ。テクニックはもちろんだけど、僕は画家が描いた年、月、ときには日付まで決めたし、描いたと思う場所や、彼の精神状態や使った画材の事なんかも調べて、時には何か月もかかったよ。

あなたの成功の秘密は何?
GR 画家の身になってみることさ。ピカソを描いていたときは、僕はピカソだったし、シャガールの時はシャガールと同じ考え方をした。彼らの気分を再現して、同じ筆運びをするために。古典もやった、フラゴナールやフランドル派とか・・でも顔料とか古びた色合いを研究しなきゃならないので大変だよ。1枚仕上がると、画材は全部始末したんだ。

長い間偽絵を描き続けて発見されなかったのは、どうしてでしょう?
GR アンリとレオンは本物のプロだった。絵が出来上がるとアンリが調べて、ダメだとすぐに始末してしまう、オシマイさ。いいと鑑定家に見せて鑑定証をもらい、販売ルートに乗る。彼らと組んでいた間は、1枚だって疑われなかった。偽物は本物になって、よく競売のカタログなんかに出ているのを見たもんだ。サツは300点見つけ出したけど(注: 禁固刑を逃れるために、GRは自分の偽作発掘に協力した)あれは氷山の一角さ。だけど僕の偽作は、画家達を裏切らなかったと思う。彼らをとことん理解して描いたんだから。蒐集家だって騙されたわけじゃない。好きな作品を鑑定証付きで買ってるんだ、みんな満足ってこと。

ではなぜ捕まったのですか?
GR アンリとレオンが死んでから、うまくいかなくなった。その後の奴らはバカばかりで、金儲けしか考えないから1日で描けと言ったりする。いつかバレると思ったけど、お金のある生活に慣れてしまってたからつい・・ でも捕まった時はホッとしたくらいだ。

どうして?
GR 悪党どもにうんざりしてたからな。奴等との商売はなんのときめきもなかった。印象派、キュービズム、シュールレアリスム・・・もう自分が誰だかわからなくなって、逮捕されてやっと自分に戻ることができた。

今は自分の名前で作品を発表していますね。
GR アブストラクションを描くんだけど、巨匠の影響を取り払うのが難しい。お客からダリやマチスのコピーの注文を受けることもあって、そんな本物の偽物には、ギイ・リブのサインを入れるんだ。偽絵師のイメージが強すぎてね、画商に自分の作品を見せに行くと、そっと、また偽絵を描かないかと誘われる事が多いよ。

映画の仕事はどうして始まったのですか?
GR 裁判の後、ジル・ブルドンから連絡があった。ルノワールのフィルムのためで、ルノワールと同じ手法で描かれた絵が必要だったんだ。280枚描いた。それから撮影では、ルノワール役のミッシェル・ブーケに筆の持ち方とか教えたし、ズームは僕の手が映された。最近ではジョン・トラボルタがドービル映画祭のついでに来て、午後中色々質問されたよ。次の偽絵師という映画のために。

何か後悔していることはありますか?
GR 全然ないね。30年間王様のように暮らしたし、本当の芸術だと自信を持てる作品を描いてきたんだ。ただ転落はキツかったけど。今そのつけを払っているからね。今やりたいことは1つだけ、自分の絵で生活することだ。まるで新しい身分証明をもらったみたいだよ。(以上エクスプレス誌より)

フランス語は、読んだだけでは日本語ほど語調がわからないので、YouTubeのヴィデオを参考に、彼の語り口を真似て訳してみました。本当は僕よりオレに近いかもしれません。
現在彼は、賃貸料が安い狭い屋根裏部屋で生活し、そこで元気に絵を描き続けています。偽物を売って豪華な生活をしていたのだから、彼は立派に泥棒です。でも憎めない・・逆にお金持ちのコレクショナーやスノッブな美術界をまんまと騙しおおせて、ちょっと痛快でもある。特に彼は根っからの絵描きで、絵が好きで好きでたまらない人であることに好感を覚えるインタビューでした。