12/24/2015

クリスマスのケーキ、ビュッシュ・ド・ノエル

Joyeux Noël
メリークリスマス
Merry Christmas
Bûche de Noël


クリスマスに欠かせないフランスの伝統的なケーキ、ビュッシュ・ド・ノエルは、薪、つまり切った丸太を形どっています。どうして薪型のケーキなのかははっきりぜず、多分クリスマスの夜、赤々と燃える暖炉の前に皆が集まって食卓を囲む・・・そんな習慣がルーツになっているのではないでしょうか。
伝統的なビュッシュ・ド・ノエルは、茶色の薪のようにモカかチョコレート、又は雪を真似てホワイトのクリームのデコレーションの丸太型で、ヒイラギの葉の飾りなどが付いた甘々ですが、最近はシェフ・パティシエ達が、競って甘さを控えぐっと洗練された味のデザイン・ケーキを毎年発表し、まるでケーキのファッションショーのようです。

ダロワイヨのビュッシュと、可愛い雪だるまケーキ
 プーシキンの、ゴージャスでバロックなロシア風。
写真の中では一番伝統的な形に近い ジェラール・ミュロ
 ユーゴ・エ・ヴィクトール、イマジネーション一杯のクリエーティブな味
 上下ともジャンポール・エヴァン、どれもチョコレート好きにはこたえらない王道のチョコレートのビュッシュ
アラン・デュカスのチョコレートのクリスマスツリー

12/21/2015

アレクサンドル・ソクーロフの フランコフォニア/ ナチ占領下のルーブル

                                                                                                                          (by Alexandre Sokourov)
Francofonia, Le Louvre sous l'occupation d'Alexandre Sokourov

11月にロシアの監督アレクサンドル・ソクーロフの映画Francofoniaフランコフォニアが封切りされ、12月に入ってIllustre et Inconnuイリュストル・エ・アンコニュ=高名で無名(の人)と題されたフランス3チャンネルのテレビ・ドキュメンタリーが放送され、話題になりました。どちらも第二次大戦のナチのパリ占領下、空襲や略奪から守るために、ルーブルの作品を殆どそっくり隠し、終戦まで守り抜いたルーブル館長ジャック・ジョジャーの実話です。俳優が出る部分は少なく、ドキュメンタリー形式。

第二次世界大戦勃発の前年38年に、最悪を予測してジョジャーはすでに作品を疎開させる手順を考え、梱包を一部開始しています。翌1939年8月25日、開戦の10日前にはルーブルを閉館し、館職員、エコール・ド・ルーブルの学生、近くのサマリテーヌデパートの販売員達が協力し、3日間で4000点の作品を梱包し、まずロワール河のシャンボール城に一旦保管し、さらにそこからもっと名もない小さい城に分散しました。フランス北部の危険が増した時には、南部のピレネー山脈近くへと、保管場所を転々とし、折ったり畳んだりできない巨大な絵や彫刻を乗せたトラックが通れるよう、道々の村の人々が電線や木の枝を切ったり、保管所の城の火事には村総出で消火したり・・・これらの美術品はフランスだけでなく人類の宝だ、子孫に伝えるのが自分たちの使命だと、みんなが協力した様子は感動的です。ノルマンディーに上陸した英米軍にも、保管場所の近くで戦闘にならないように、場所が前もって通知されていたらしい。


ルーブルの作品が略奪されなかったのは、フランスの美術品の管理と保護の為に派遣されたドイツの将校フランツ・ヴォルフ・メッテルニッヒのお陰でもあります。彼は元ボンの美術大学の教授で貴族の称号を持ち、本当に芸術を愛する人だったのでしょうね、文字通り美術品の ″保護″ に専心します。ヒトラーは母国に壮大な自分の美術館を持つことを計画していたので、美術品をドイツに送りたかったのですが、戦争中の移動は作品にダメージを与えるとの理由で、終戦まで安全にフランスで保管することを主張しました。ヒトラーはもちろん勝つつもりだったので、勝ってからゆっくり運ぼうと思ったのでしょう。ユダヤ人から没収した大量の美術品は、ドイツに送られたり、堕落しているとヒトラーが嫌った現代美術は競売された中で、ルーブルの作品は、メッテルニッヒは頑として自国の軍人たちにも一切手を出させなかったのです。ジョジャーは初対面の日に、メッテルニッヒに美術品の隠し場所と目録を全部進んで渡しています。相手は占領軍なので、報告しないわけにはいかないからです。敵同士で、一度も心を開いて語り合うことなく、美術品を守るということで繋がっている彼とジョジャーの不思議な関係は、これだけをテーマに映画が作れそうです。なにしろこの2人がいなかったら、今日のルーブルは無いのですから。

フランコフォニアは、残念ながら詩的というか雰囲気を追う部分が多すぎてお話の内容が不鮮明になのが残念でした。テレビのイリュストル・エ・アンコニュの方は、その点もっとずっと明快で、もっと感動的。上記の情報も全部こちらから引用しています
Francofonia   Alexsandre Sokourov
Illustre et inconnu, Comment Jaques Jaujard a sauvé le Louvre    Youtubeで見られます(フランス語版)外国のテレビにぜひとも輸出してもらいたいドキュメンタリーです。

12/16/2015

ジャン・ヌーヴェルのフィルハーモニー・ド・パリ


Philharmonie de Paris de Jean Nouvel

フィルアーモニー・ド・パリが今年1月にオープン。パリには珍しい超近代的なコンサートホールであること、建設費用が予定の何倍にも膨れ上がり、フィルハーモニーと建築を担当したジャン・ヌーベルの喧嘩、裁判騒ぎに発展したりでメディアを騒がせていました。モーツァルトのミューズだったウェーバー姉妹(ジョセファ、アロイジア、コンスタンス=モーツァルト夫人)をテーマにしたコンサートの切符が手に入ったので、好奇心一杯、初めて行ってきました。
外観は、個人的にあまり好きではないのでカット。
建物が巨大なのに、各階のロビーは上の写真のように天井が低く、何もなく、つまらない。しかも下の方の階は天井から無数の金属(又はプラスティック?)の細かいプレートがびっしり下がり(光を反射して面白い効果が多少あるけれど、邪魔な気がする)、ますます天井が低く感じられます。大シャンデエリアの下がるオペラ座や明るいバスチーユの高い天井に比べて、ちょっとうっとうしいような圧迫感あり。

ホール内部は、写真を見て想像していたのよりコンパクトでまとまりのある印象。ホール全体が曲線でアシメトリーなのが、オペラバスチーユの直線と垂直に比べて暖かく楽しい感じがします。うねるようなラインのバルコニー、波間に漂うクジラの群れのように見える天井から吊るされたパネル、黄色い壁の四角い凹凸、全てが音響効果を増すために考案されているそうです。
舞台から一番遠い正面一番上

安い席でもゆったり広く、座り心地のいい黄色い椅子。狭くて硬く、背の高い人には足がつっかえて拷問のようなオペラやシャンゼリゼ劇場の椅子とは大違い! 全てが丸みを帯びているのと黄色の暖色の内装のせいか、とても親しみのある、くつろげるコンサートホールで、すっかり大ファンになってしまいました。

音響効果を考えた凹凸のある壁。この壁の後ろ側は下の写真のような空間になっていて、高所恐怖症なので下までよく見ることができませんでしたが、下まで筒抜けのようです。

さて肝心のコンサート・・・ソプラノの最初の一声を聞いた時には、ビックリし信じられなかった程の、すごい音響の良さ!! 音響効果が素晴らしい、トップクラスだと話には聞いていたけれど、これほどとは思わなかった、正に目から鱗! 本当にうまい歌い手はピアニッシモを美しく歌える人だと確信し、このピアニッシモを聞きたくてオペラに行くような私としては、フランスの若手ホープのソプラノ、サビーヌ・デヴィエイユの素晴らしいピアニッシモがよく聞こえ、漏らさず十分堪能することができて幸せでした! 音響が良すぎるせいか、高い音はちょっとエコーがかかっているように聞こえたのが、始めのうち気になりましたが。一方オケは、バロックを得意とする若干30歳で、既に第一線で大活躍するラファエル・ピションと、彼のアンサンブル・ピグマリオン。こちらも良い音響のお陰で、一人ひとりのヴァイオリンの音色が聞き分けられる・・ような気がするほど・・・大満足でした。

フィルハーモニアはシテドラミュジークを統合して、フィルハーモニア1(ジャン・ヌーベルの大きい方)とフィルハーモニア2(元シテドラミュジーク)とが隣り合っているので、間違わないように。

因みに、以前このブログでも取り上げたサル・プレイエルは、今年初めにネット販売の会社に買収され、クラッシック好きのパリジャンに惜しまれながら、ポップミュージックのコンサート専門になってしまいました。あの美しいアールデコのホールが、ポップミュージック用では可愛そうな気がしますが、仕方ない・・

12/11/2015

デュパンのショーソン・オ・ポム


Boulangerie Dupain

ジャジャJaja、グルGluなど次々人気レストランを生み出したリュシアン・フォアンとリュドヴィク・ダルドネのコンビが、マレのメルシーの斜め前に、ブーランジュリー、デュパンをオープンしました。
シェフ・ブーランジェーのタンギィ・ラエの作るパンは、パリ郊外の水車の石臼で挽かれた100%ビオの小麦粉と、ナチュラルなイーストを使用。田舎風のミッシュ・デュパン、ヒマワリやカボチャの種などが混じり、ハチミツ+ゲランドの荒塩を加えたリッチなパン・グルマンなど、ヘルシーでコクのある味。もちろん2人の経営するレストランのパンは、今ではみなここで作られます。

パンも美味しいけれど、私がここに来る本当のお目当ては、実はショーソン・オー・ポム、リンゴのコンポート入りのヴィエノワズリ(菓子パン)。どこのブーランジェリーでも売っているおやつだけれど、ここのはごく薄くて軽いパイ皮に、タルト・タタンみたいにカラメル化したリンゴが沢山入った絶品です。

    
    
Dupain   20 Bd. des Filles de Calvaire 11e

12/05/2015

ジャン・ヌーヴェルが改装した市場/ サルラ、ペリゴール地方No2


L'église Sainte-Marie rénovée par Jean Nouvel/ Sarlat, Périgord No.2

先日サルラの建造物保護について書きましたが、今日はその続き、サルラのサントマリー聖母教会の修復のお話です。
この教会は1365年から建築が始まった、ごちゃごちゃした装飾のないフランス南部のゴシック様式でしたが、革命の時に略奪で内部が完全に破壊され、また1815年には後陣が取り壊され、教会として修復することもできずに民間に売られて工場やパン屋になったりと放置されていました。それを15年ほど前サルラの町役場が買い取り、サルラで生まれて育った ″町の子″ である建築家、ジャン・ヌーヴェルに依頼して屋内市場に改装しました。
                    

改装された当時、ステンレスの大トビラ(左右各5.7トン)や、ステンドグラスに代わってはめられたガラスがモダンすぎたようで、中世のままに修復された町を誇るサルラ住民には不評もあったようです。でも15年後の今日、ここは町の名物市場になっています。ステンレス、ガラス、中世のままの石の壁、瓦屋根のハーモニー。古めかしい街並みに超モダンなものが混じるのも、町が生きている証拠で悪くないと思いました。新しい物をうまく適度に加えると、古い物の美しさがより引き立つ場合もあるのですね。
中は天井が高すぎて、ちょっとスペースがもったいない感じがしますが、それを切って何階建てかのショッピングセンターにしてしまったら、教会の面影はなくなってしまいます。ジャン・ヌーヴェルは、できるだけ元の建物を残すように設計したのです。鐘楼の上は展望台、美しいサルラの町が一望できます。

市場の中にマカロン屋さん、レ・ペッシェ・ド・サントマリーを見つけました。昔ながらの製法で作られたマカロンで、ラデュレのより1.5倍くらい大きく、直径30センチ位の丸い大型の箱入りと(サントマリー市場と大扉のデッサン入り)、パラ売りも。チョコレート、ココナッツ、アーモンド、ピスタチオ、レモン・・・どれも素晴らしく美味しい、特にこの地方名産のくるみ入りがお勧め。

11/29/2015

ザ・ニューヨーカーの表紙

                    by Charles Berberian, The New Yorker Nov.30
Le français Charles Berberian dessine la une du New Yorker

今週のザ・ニューヨーカーの表紙は、フランス人のイラストレーター、シャルル・ベルブリアンの描いたパリのカフェのデッサンが選ばれました。13日のパリ連続テロの告発と犠牲者へのオマージュのデッサンです。パリの街角、カフェのテラスに集まる人々、何でもない日常のひとコマだけれど、これがフランス式ライフスタイルの象徴、人生を楽しむこと・・
  
毎年世界中から、沢山の観光客がエッフェル塔やルーブルを見に来ます。でももしパリにあるものが歴史的なモニュメントだけだったら、こんなに沢山の人々を魅了し続けられるでしょうか? それらのモニュメントのバックグランドに、フランスのアール・ド・ヴィーヴルart de vivre(下参照)があってこそ、パリが魅力的なのだと思います。1月のシャルリー・エブドー事件では、言論の自由、フランス人が最も大事にする ″自由″ が侵され、今回はアール・ド・ヴィーヴル彼らの生き方の根本が踏みにじられました。

13日のテロに関する表紙は、ザ・ニューヨーカーのアートディレクター、フランソワーズ・モーリーからシャルル・ベルブリアンに依頼があり、急きょ仕上げたものだそうです。同紙の看板である表紙のデッサンは、それだけでも展覧会や本が出るほど有名。ベイブリアンのデッサンは、右端の、夜空であるはずの部分が真っ赤なのが印象的です。

フランソワーズ・モーリーはフランス人で、アメリカには ″まじめシリアス″ なマンガが無いと、70年代後半にニューヨークでイラスト/マンガ誌Rowを創立。シャルリー・エブドー事件の時にはなかなか世界の人に理解してもらえなかったけれども、フランスには古くはドーミエやビゴー、近代ではシャルリー・エブドー、ハラキリなどのまじめなマンガが文化の一部として根強いのです。タンタンやサンペのプチ・ニコラなど、フランスの文化を担うマンガも沢山ある。そして1993年からザ・ニューヨーカーのアートディレクターを務める辣腕プレス・ウーマン。彼女自身アーティストで、自らニューヨーカーの表紙のデッサンを描いたことが何度もあるそうです。素晴らしくムードのあるフランス式美人、夫はホロコーストをテーマとしたマンガ ″マウス″ で有名なイラストレーターのアート・スピーゲルマン。

アール・ド・ヴィーヴルはフランス人が好きな言葉で、英語はライフスタイルが一番近いけれど、なんとなくニュアンスが違うような気がします。楽しく生きるための術、アート、というような意味。

The New Yorker

11/24/2015

カリーヌ・ブランコヴィッツ/ オペラのトロワジエーム・セーヌ

                                       by Carine Brancowitz ″Intermezzo″ 3e Scène, L'Opéra de Paris
Carine Brancowitz/ 3e scène de l'Opéra de Paris

マリークレールなど雑誌のイラストで知られているカリーヌ・ブランコヴィッツが、オペラ座のニュースレター上に現れるインターネット劇場 ″トロワジエーム・セーヌ″ に、彼女独特の現代的でポエティックなデッサンを描きました。
タイトルは ″インテルメッツォ″。若いバレリーナ達の休憩時間の様子を描いた10メートルの細長いデッサンに、バレリーナ達の会話や音楽の断片、舞台裏の様々な雑音を交えてヴィデオに仕上げたもの。現実と幻想の狭間に、まるで時間が停止してしまったような約10分間は、バレーを直接の視覚でなく感覚で感じられる不思議な映像です。

カリーヌ・ブランコヴィッツの描く線画は、おしゃれでファッショナブルな現代の若者たち。ビックのボールペンから流れ出る線は、とても繊細でありながら大胆。恐ろしいほどのデッサン力、細密な写実なのに、平面的でマンガチックでもある。空間を細かい模様で埋めたり、ヴィヴィッドなカラーで塗りつぶしたり、意外なアングルの構図の取り方がミステリアス。

因みにこのトロワジエーム・セーヌは、最近できたオペラ座のインターネット企画で、バレーをテーマとした写真、ヴィデオ、デッサンなどの小ストーリーを紹介しています。どれも2、3分から10分くらいと短いショートショートで、1つひとつユニークな見せ方でバレーを楽しむことができます。La Grande Sortieというタイトルのヴィデオは、ヒッチコック風のサスペンス溢れるはっとする名演出で感激しました。プログラムを調べたりチケットを予約するだけの平凡なサイトから、見る価値のあるサイトにしようというオペラの意図は、私に関する限りは大成功です。

11/19/2015

ラ・シネマテック・フランセーズ/ マーティン・スコセッシ展

                                                                                              
La Cinémathèque Française/ l'exposition Martin Sorsese

シネマテックで、マーティン・スコセッシの展覧会をやっています。オープニングに先駆けてのヴェルニッサージュにはスコセッシも出席し、2005年に完成したシネマテック新館の落成式の特別ゲストとして招待されてから、ちょうど10年目になると新聞に出ていました。
スコセッシの作品の映像や写真、ポスターはもとより、メモの書き込んであるシナリオ、小道具、衣装、また彼の子供の頃の写真、家族ゆかりの品など珍しいプライベートな展示品も見られ、映画好きには見逃せない展覧会です。特に注目はスコセッシ自筆のストーリーボード。この人は絵が好きなのですね、監督自身がストーリーボードを描くのはめずらしいそうですが、同じ場面の映画の写真も一緒に展示されてとても面白い。
同時に館内の映画館では、スコセッシの全作品が上映中。

シネマテックの創立は1936年。映画に関する世界でも有数の膨大な資料を保管し、図書館、小博物館及び展示会場、古い名作や映画史上重要な作品などを、監督別やテーマ別で上映する映画館を持っています。外国の俳優や監督などのインタビューで、パリに来ると、古い映画を見て歩くのが楽しみというコメントを度聞いたことがあります。最近ではグザヴィエ・ドラン、あとは誰だったか忘れましたが・・パリにはハリウッドのブロックバスターを避けて、地味な秀作を上映する小さな映画館がまだ残っていますが、シネマテックはそれをもっと組織的にやっている、映画マニアと映画研究者の殿堂なのです。
スコセッシが落成式に出席したという、一目でフランク・ゲーリー作とわかるシネマテックの建物
 高い天井から自然光の入る、赤いベンチがユニークな待合室
 映画関係の本が揃ったブックショップ
ベルシーの公園に面したシネマテックのカフェの名前は、トリュフォーの映画の題名 Les 400 coups レ・キャトルサン・クー(日本題は″大人はわかってくれない″)

Martin Scorsese   2016年2月14日まで
La Cinémathèque Française  51 Rue de Bercy 12e  

11/15/2015

無題

Sans titre
高度な文明を築き、美しく人を感動させる芸術を生み出せる人間達が、なぜ一方では愚かに、醜く殺し合うのでしょうか。
テロ犠牲者のご冥福を祈ると共に、治療中の沢山の負傷者の方々、お悲しみご心痛のご家族やお友達の皆様に、陰ながら心からの友情と励ましの気持ちを送りたいと思います。

11/09/2015

文化遺産の保護について/ サルラ、ペリゴール地方No.1


Escapade en Périgord, Sarlat-la-Canéda et le sauvegarde de patrimoine historique

″フランスで最も美しい町″ のラベルを持つ町や村が山ほど集まり、フォアグラやワインなどグルメでも有名なフランス南西部、ペリゴール地方に先日行ってきました。
サルラ(正しくはサルラ・ラ・カネダ)の始まりは紀元700年代くらいで、当時の交通と守備の要地だったので、ヴァイキングの襲来、100年戦争(1回もイギリスに占領されなかった!)、宗教戦争では隣のライバル、プロテスタントの町ベルジュラックと何度も籠城戦を繰り返すなど戦争が絶えなかったのですが、戦いの合間に商業が発展し、力と富を得たブルジョワ達が貴族の称号を与えられ、競って美しい館を建てたのだそうです。しかしその後政治の中心がパリに移り、この地方は次第に取り残されてしまいます。

近代化、工業化に乗り遅れ、眠り姫のように17-19世紀を眠って過ごしたこの地方は、そのため幸運にも、中世やルネッサンスの建物が町ごとそっくりそのまま残りました。
そこに登場したのがアンドレ・マルロー。安藤忠雄さんがインタビューの中で語っていたドゴール政府時代の文化相で、作家としても有名。けれどそれらのインテリ的イメージとは異なる、アヴァンチュリエ(冒険者)でもある。学校をドロップアウトして独学で作家活動を続けながら、スペイン内戦や対ナチのレジスタンスで戦い、後に文化相に就任。私のフランスのいい男ベストテンに入ってる人です。新しい物が良しとされ、世界中が近代化の名の元に古い物を壊していった60年代に、この人は後にマルロー法と呼ばれる、歴史的美的に価値があると判断された建物の保護法を1962年に立法化します。その恩恵を初めに受けたのがサルラ。

    
    
    
     

サルラはマルロー法のモデル都市として撤退的に修復されます。修復といっても手っ取り早い安物の工事ではありません。25年もかけて、電線は全て地下に埋められ、中世の不潔な澱がこびりついた壁や路地は砂で磨かれ、その地方の伝統的な古い瓦を使い、昔通りの石工技術で修理したのです。だからサルラは、ニセ物や作り物の匂いがありません。以後このマルロー法の恩恵を受け、フランスの沢山の歴史的建造物が保存修復され現代に伝わっているのです。
美しいのでイギリス人がセカンドハウスを買いあさり、ペリゴール地方はイギリスの植民地になってしまったとフランス人が冗談を言うくらい、イギリス系の不動産屋が沢山あり、あちこちから英語が聞こえてきます。なにしろ100年戦争の頃から、イギリス人はここを狙っていたのですから・・
中世らしさを満喫するなら、観光客の少ない早春か晩秋がお勧め。
 
パリについてはちょっと特別で、ローマ時代の遺跡や、ノートルダム寺院などゴシックの教会や貴族の館など古いものも沢山ありますが、アパートやオフィスなど民間の建物は、1850-70年にオスマンが新しい都市計画に基づいて建て直したものが多く、そのため比較的新しいのです。迷路の様に入り組み、汚物で汚れていた中世のままの細い路地を取り除き、デモ好きのパリ市民がバリケードを作りにくい放射線の大道りを作りました。それでパリは美しく、近代都市として発展できましたが、中世の民間建築は殆ど破壊されました。そのパリでもやはりマルロー法のお陰で、一番古い地区の1つであるマレが美しく蘇えりました。町工場やガレージ、倉庫として荒れ放題の元貴族の館などが国の援助で美しくなり、持ち主たちは地価が上がって大儲けしたという問題もあったようです。今マレはパリで最も美しくてファッショナブルな人気スポット、サルラも観光客が押し寄せ、マルロー氏が生きていたらびっくりしそう・・でもどちらも壊されずに、昔のままで後世に受け継がれるのは確実です。
尚マルロー法は現在も生きています。

追加:  帰りのTGVの中で読んでいた雑誌(フランスの)に、″やっぱり壊される東京のホテル・オークラ″ 内外の沢山の反対を押し切って、という記事が・・・残念!